人の歴史とともに始まった栗の歴史。
日本人と栗の長いお付き合い。

 日本では太古の昔、 石器時代の縄文遺跡から炭化した栗が発掘された事から、九千年前から野生の栗を採集していた事がわります。野生の栗は栽培種より甘味が強いですがとても小粒で収穫量も少ないので、当時はとても貴重なエネルギー源であった事がうかがえます。
 栗の栽培が始まったのは今から約5千年以上前の縄文時代、青森県の三内丸山遺跡の発見により、当時の人々が栗の木を植林し安定的な食料としていた事が判明しました。出土された栗が野生種より大粒である事から、当時の人々はすでに相当な技術を持っていて、肥料を施しながら栽培していたのではないかと研究・推測されています。
 また、遺跡集落の中心に発掘された、祭祀用の建物には栗の大木が使用されていました。人々に安定した食べ物を与えてくれる栗の木への感謝と畏敬の気持ちが、だんだん信仰の対象となっていったと考えられます。
 栗を神聖視する事はやがて栗の木を祭事用品に用いたり、お供え物にしたり、節目となる年中行事に料理し、食べる事で厄除けをしたり、栗に縁起を担ぐ風潮へと発展しました。戦国時代には、保存食であった「かち栗」の栄養価や、「勝ち」につながる縁起の良さに戦国の武将が目を留め、栗の栽培を奨励し、出征する兵士に持たせ、志気を高める事に使われました。今日でも、季節行事や祭事に栗を食べ縁起を担ぐ風習が残っており、栗は人類の起源から現在に至るまで、私たちの生活に密着してきた親しみ深い果実です。

発掘調査でわかった栗と人の密な関係
 三内丸山遺跡は、縄文人が長期間にわたって定住生活を営んでいた日本最大の集落跡です。江戸時代に発見されて以来の発掘調査で、いろんな事がわかっています。
 出土した花粉分析の結果から、集落以前にあったナラ類やブナの林が、居住が始まると急激にクリ林にかわっています。これは人の手によってクリ林がつくられた事を示しています。また、廃棄されたクリの果皮や種子等が大量に発見され、クリが重要な食料であった事もわかります。さらに、建物の柱や道具、燃料としても多量に使用されており、この遺跡内で最も大きくシンボル的な建物は、直径約1mもの栗の巨木で組まれていました。三内丸山の人々にとってクリは重要な植物であった事がわかってきました。