主要街道が重なるひがし美濃は情報・文化の交流基地。

 「栗菓子の里」としてすっかり定着しているひがし美濃地域ですが、「栗といえばひがし美濃」といわれ始めたのはいつ頃だったのでしょうか。この界隈は江戸時代に制定された「中山道」が東西を貫通し、中津川から富山へ通じる「南北街道」、岩村街道から三河へ抜ける「中馬街道」などの主要街道と脇街道も多岐に分かれて、江戸から京へ、そしてお伊勢さんへと東西南北を行交う旅人や行商達の往来で賑わいました。当時の街道や宿場町で振る舞われていた名物「栗料理」は長い道中の疲れを癒すご馳走でした。その頃は天然の山栗しか手に入らなかったので、栗菓子や栗料理は本当に希少で有り難い食べ物だったと思われます。
 江戸中期以降、中津川宿を中心とする宿場町は俳諧が盛んで歴史的にも有名な俳人や歌人が訪れ、歌会や茶会などが頻繁に催されました。宴の場では特産物を使った郷土料理や和菓子が振る舞われ、栗きんとんを初めとする栗菓子も大変高い評判を得ていました。舌の肥えた文化人達の風雅な需要に応えていくうちに、製造される和菓子の品質もどんどん高くなりました。さらに、秋の収穫期だけの限定菓子として販売されてきた事が希少価値を生み、地域の方々の評判となり、著名人、雑誌・新聞、口コミ、マスコミなどに扱われる事で全国に広まる事になりました。

中山道にある四つの宿場町

馬籠宿
中山道の難路、木曽路の最南端に位置する馬籠。全長600mの石畳の坂道に沿って、軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残す。明治28年の大火事により当時の建物は消失したが、町の人達の努力で、復元された。文豪・島崎藤村の生まれ故郷としても知られ、名作「夜明け前」の舞台にもなった宿場町。
落合宿
美濃国の東玄関口として栄えた宿場が落合である。落合宿から馬籠宿へは岐阜県指定史跡の石畳が続き、本陣井口家の門は当時のまま残っている。また、江戸後期に活躍した歌舞伎役者7代目市川団十郎からの礼状が保存されている。源平の争乱の時に、源義仲は側近の武将落合五郎兼行をこの地に配置したが、その住居の跡といい伝えられる所も残されている。
中津川宿
中津川は木曽路の入口であり、飛騨街道の分岐点にあたる交通の要所であった。商業で賑わった当時の様子は町の規模からもうかがえ、その商域は木曽・飯田方面、遠くは京都・大阪方面へも広がった。文久2(1862)年には、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)がこの地で藩主毛利敬親を待ち受け、藩論を尊王攘夷へと方向転換する会議(中津川会議)が開かれた。
大井宿
大井(現在の恵那市)は、中山道が岩村街道、秋葉街道、下街道と交差し、神社の参拝者で賑わった宿場である。常に40軒余りの旅籠屋と数軒の茶屋が軒を並べていた。その規模は五妙坂の高札場から、阿木川に架かる大井橋までの六町半(約700メートル)に及んだ。