フィールドワークで探った、
ちょっと私的な五平餅論。
文=安藤利道



名前もナゾ、生まれもナゾ、
不思議だらけの「ごへいもち」。

 この地域では、「ごへいもち」のことを”ごへいだ“とも言い、お客さんをもてなす最大のご馳走でした。ところで、この「ごへいもち」は、いつどこで誰が作ったものなのでしょうか。調べてみると、”五平餅“と”御幣餅“という漢字表記にぶつかります。「昔、ある村の五平さんが作ったから五平餅だ」という説や、「昔、ある村の樵が山の神の祭りに御幣(幣束)の代わりに使ったから御幣餅だ」とか「山の神さまに供えたのが御幣に似ていたから御幣餅だ」という、ふたつの説に分かれるわけです。恵那地域の多くの方からこうしたふたつの由来を聞きました。これらの説は、漢字としてなぜ”五平餅“とか”御幣餅“を用いるのかがよく分かる話ですが、「ごへいもち」がいつ頃どこで作られたのかはハッキリしません。
 他にも、中津川宿のある旧家の日記には「元治元年(1864)水戸の浪士(天狗党)の千余名が来ました。宿場の家々は戸を閉じていたので、宿役人は四ツ目川の茶屋に頼んで米4斗分の護兵餅を握り昼食に売った」と書かれています。この場合の”護兵餅“の表記は、当時の時代情勢が影響した書き方だったとも言えそうです。


およそ10種類の形態がある
恵那地域の五平餅。

 恵那地域の五平餅(以下、五平餅と表記)の形態は、JR中央線に平行して恵那山の前山を出発点に東西に走る前山断層によって2種類に分かれています。中津川市と恵那市を含む恵北地域(恵那郡北部)は主にだんご型が主流であり、恵南地域(旧恵那郡南部)はわらじ型が中心です。それを詳しくみると、恵北地域のだんご型五平餅は、地区によって大きなだんごと小さなだんごがあり、カタチもまん丸のものと扁平のものに分かれています。そして串につける数も、2つ刺しから、3つ、4つ、5つ刺しなど同一ではありません。
2つ刺しから、3つ、4つ、5つ刺しなど、同一ではありません。一方、恵南地域のわらじ型五平餅も地区によって大小があり、またおにぎり型やきりたんぽ型など異なったカタチもあります。その結果、恵那地域全体としては、およそ10種類ほどの五平餅の形態を見受けることができます。


加子母の五平餅は
串に特徴があるわらじ型。

 何年か前、加子母のフィールドワークを行った時のことです。「恵北地区の五平餅は主にだんご型だから、加子母も当然だんご型であろう」と思いながら、付知から塞の神峠を越しました。ところが案に相違して、ここはわらじ型でした。しかし、他の地域のわらじ型と少し違ったのは、串がやや長く、先が三角に尖り、串のアタマが餅の先に出ていないことでした。地元の人いわく、「新築祝いの夜はかならず五平餅です。焚き火で焼くためには串を長くし、先をこのように尖らせて土に突き刺しやすくしなければなりません」と。……なるほど、納得です。
 舞台峠を越えて下呂町の竹原地区へ入ってみましたが、ここもやはり同じようなわらじ型でした。このことから推測して、飛騨地域の五平餅の流れは加子母まで及び、これとは別のものとして恵北地域のだんご型五平餅の系統があることが分かります。


人や文化の交流が
さまざまな形態を混在させた。

 次にタレの違いに目を向けてみましょう。普通、だんご型五平餅には醤油ダレを使うことが多く、わらじ型五平餅には味噌ダレをつけるのが一般的です。もちろん、好みによって味噌に細かく刻んだネギを摺り込んだネギ味噌がさっぱりしていて美味しいという人も少なくありません。
 ところが、わらじ型なのに醤油ダレを使っているという地域もあるのです。わらじ型五平餅の多い恵南地域のうち、上矢作の上、漆原から串原の中沢、そして明智の東方、町、吉田をへて陶地区にいたる東西に一直線にのびるルートがその地域にあたります。不思議なことです。
 しかし、考えてみるとこのあたりは、名古屋から瀬戸をへて平谷へ、そして飯田へといたる中馬街道の道筋にあたり、江戸時代から明治・大正の頃までは多くの物資や人が運ばれた道として知られています。当然文化の交流もあったでしょうし、五平餅然文化の交流もあったでしょうし、五平餅の作り方もお互いに教えあって、やがてこの地区がわらじ型五平餅の圏内なのに醤油ダレを使う地域になったということではないでしょうか。このように五平餅は地区内で独自の形を整える反面、他地域の形態も取り入れて、今のように各種混在する分布形態になっていったのではないでしょうか。


源流をさぐるヒントは
山の講の五平餅!?

 山の神を祀る秋の山の講は、旧暦の10月6日に行われます。この日は講の男性ばかりが神前に集まり、火を焚き、料理をして神前に供えます。この時の料理には、味飯や秋刀魚飯、そして五平餅などがあげられます。
 ある山の講の五平餅は次のような形態でした。ご飯を捏ねてだんごにまるめ、長い木の枝を串にして練りつけますが、カタチは大きいわらじ型か、きりたんぽ型。これにネギ味噌か、醤油ダレをつけて焼きあげました。男料理でまことに素朴なものですが、味は見かけによらず絶品でした。
 誰がいつ頃作り始めたのか定かではない五平餅ですが、その源流のヒントは、案外この山の講の五平餅にあるのではないかと、私は考えているところです。

山の講によっては1mもの巨大な
きりたんぽ型五平餅が供えられる。


あんどうとしみち◎1926年岐阜県恵那郡串原村生まれ。大井小学校など恵那市郡部の教員を務める。恵那市史編纂室などをへて、現在は恵那市文化財保護委員。以前から、『恵那地域の年中行事と郷土食』の関係、とりわけ五平餅に関心が深く、10年以上にわたって独自に調査をつづけている。